下宿屋のおばさん
Ms. kawamura Yoshieko
11月12日の金曜日、一人の恩人の告別式に出席した。慰霊の写真を眺めながら、そして永遠の眠りについたその美しい女性の姿を眺めながら、沢山の思い出が走馬灯のように蘇り、大粒の涙がとどめもなく流れた。
大学2年次から3年次10月までの約1年半、東京都杉並区高円寺で過ごした。貧乏学生だった当時、家賃2万3千円(風呂なし・トイレ共同)のアパートに下宿していた。勉強もせず、アルバイトと遊びに夢中になっていた頃である。
その下宿屋は、都心の中では比較的大きな一軒家を間貸しできるようにと、リフォームされていた。1階には大家さんの部屋と間貸し用の2部屋、2階には同様に3部屋あり、全部で6世帯が同じ屋根の下に暮らしていた。
当時は、不思議なことに学生は私だけで、他の住民は、俗にいう売れない作家やミュージシャン、水商売関係の方々が住んでおり、学生時代の私にとっては非常に興味深い人たちであった。
月に1度、楽しみにしていたことがあった。それは、家賃を大家さんに納めに行く日である。
お金を払いに行くのが何でそんなに楽しいんだ?と、思われるだろう。もちろん、お金を払うのはめちゃくちゃ痛かった。しかし、その苦痛以上の代償があったのだ。
ピンポーン。大家さんの部屋のベルを鳴らす。
「西田です。今月の家賃を払いにきました。」
「あー、西田君、あがんなさい。」
私は、いつも決まって午後6時辺りを見計らって訪ねることにしていた。
家賃台帳に受領印がつかれるやいなや、
「そろそろ夕飯時ね。食事していきなさい。」
私の予定も聞かずに台所に向かう大家さん。大家さんは私が『それ』を狙ってきていることなど、とっくにお見通しだった。
大家さんはお酒が大好きな人だった。酒が好きな私は格好の相手となった。酒は酔って楽しければいい、なんて思っていた私に、日本酒を沢山そろえて、一本一本丁寧に味の違い、味わい方を教えてくださった。今、私がお酒に口うるさいのは、この方のお陰(せい?)なのである。
大家さんは当時75歳を過ぎていらっしゃったが、決して『おばあさん』ではなかった。いつ伺ってもきちんとお化粧をされ、素敵なファッションで身をまとわれていた。若者から見ても素敵だなっと思わせるファッションセンスをお持ちだった。
『おばさん』は30歳後半にご主人を病気でなくされて以来、ご主人が残された家をリフォームして下宿屋を始められた。それ以来ずっと未亡人であり、お子さんもいらっしゃらなかった。幾多の困難を乗り越えてこられたからこそにじみ出る強さと優しさを兼ね備えた方だった。中途半端が大嫌いな人で、おばさんからたくさんのことを学んだ。
「遊ぶのなら徹底して遊びなさい。」
「学ぶときは徹底して学びなさい。」
「何でもやるときは徹底してやりなさい。」
一所懸命になることの大切さを教えてもらった。また、よく叱られた。本当にたくさんたくさん叱られた。叱っていただいた一つひとつのことが、私の血となり肉となり、今日の私がある。
あれから10年以上経つが、年に数回はおばさんを訪ねていた。いつも突然に訪ねていたが、いつ伺ってもきちんと化粧をされていて、素敵だった。
「あら、よく来たわね。飲んできなさい。」
昔話に花が咲き、酒も進んだ。私の成長を本当に楽しみに見守ってくださっていた。
亡くなる丁度10日前、私は、東京・目黒区での講演後、ふっとおばさんに会いたくなり高円寺に向かった。
「よく来たわね。飲んできなさい。」
会話はいつもと同じだが、おばさんから「生」のエネルギーが弱くなったのを感じた。酒の量もぐっと減った。
「来年は私も米寿よ。もう、やりたいこともやったし、思い残すこともないわ。そうそう、あんた早くお嫁さんを連れていらっしゃいよ。お祝いもとってあんのよ。あんたに渡すとすぐ飲み代に消えるから、奥さんにしか渡さないわよ。」
(私は、5月22日に結婚。結婚後も妻は仕事の関係で岡山在住中)
おばさんにとって、私はいつまでも学生時代のやんちゃ坊主のままである。それがまた心地良い。
「わかりました。ところでおばさん、来年の米寿の日にお祝い会をやりましょう。そうだ、これまでここに住んだ人たちに声をかけて、盛大にやりましょうよ。俺、幹事やりますから。もちろんその前にカミサンつれてきます。」
「そお、そりゃ楽しみね。約束よ。」
11月10日午後6時、大学の研究室に一本の電話がなった。
愕然とした。
おばさんらしい粋な去り方だった。
川村芳枝子さん。貴女との出逢いに心から感謝しています。
これからもこのやんちゃ坊主のこと、天国から見守っていてくださいね。
